Peanuts Monkey Cuisine

I am just a monkey man, I'm glad you are a monkey woman too!

ジャズ談義(19)老成

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Two Dogs, Hampi, India

私の窓辺には乾燥葡萄が生っている。これは形容矛盾ではない。乾燥葡萄は乾燥葡萄として生まれて育ってもがれて死ぬ。言い換えれば、よく熟れてぷくぷくに実った葡萄の実が、次第に水分を失って枯れていき、やがてしわしわの乾燥葡萄になって死期、あるいは食べごろを迎えるのではない。乾燥葡萄は、梢の先にそのか細い生命が結実したとき、すでに乾燥葡萄の顔つきをしているし(老け顔、と呼んでも差し支えないだろう)、たっぷりと養分を浴びてもいっこうに鮮やかに色づかず、むしろ色を喪って皺ばかり増やしていく、その型破りな成長過程のどの時点にあっても、自分の乾燥葡萄としての“分”に自覚的である。むかし山田洋二の撮った「武士の一分」という映画があったが、その映画のなかで木村拓哉が演じている武士が持っているはずの“一分”のようなものを、乾燥葡萄は生得的にすっかり内面化している。それを乾燥葡萄自身は“全き一分”と呼ぶ。私にはなんのことかよくわからない。私はその映画を観たことがないのだ。ともかく、私は窓辺で竪琴を抱えながら、乾燥葡萄との対話にいそしむ。ほとんどは私が一方的にしゃべっている。乾燥葡萄が寡黙である理由は、まず喉がほとんどつぶれているからであって、つぎに植物、しかもほぼ枯れ切ってその生命を私の口のなかで終えようとしている小さな果実であるかであって、さらに乾燥葡萄だからである。よく喋る乾燥葡萄、というのは、たしかに形容矛盾である。そのあたりは、木村拓哉とはまったく似ていない。我々は心について語りあう。乾燥葡萄いわく、心というのは、木村拓哉ではなく、乾燥葡萄とよく似ている。親指の先ほどの、皺だらけで、度し難く甘ったるい、ついぞ膨らむことができなかった遺恨を抱えたまま死んでいく、屈託と哀感のかたまりなのだそうだ。それはあまりに厳しすぎる(ある意味甘すぎる)自画像ではありませんか、と私は尋ねる。すると乾燥葡萄は、私にその細い眼皺を向けて、夏の午睡のような沈黙に沈んでしまう。そういうときの乾燥葡萄はただの偏屈で狭量な皺々爺に見えないこともないが、そういう邪まな想いを窓辺の友に抱くこと自体が、心というものが乾燥葡萄の形容するとおり、乾燥葡萄のようなものであることの証なのかもしれない。つぎに乾燥葡萄が口を開いたら、そのことを話してみよう、と思いながら、やがて私もみじかい眠りに落る。夕方に目覚めて、白葡萄酒を飲みながら、乾燥葡萄をぺろりと食べる。(文・写真:落花生)