Peanuts Monkey Cuisine

I am just a monkey man, I'm glad you are a monkey woman too!

ジャズ談義(2)夏色

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Men Smoking Water Pipes, Tabriz, Iran

いい言葉、ときいて、まず思いついたのは「夏色」だった。むろん有名な楽曲のタイトルであるわけだが、連想したのはそちらではなく(佳曲、いや、かなり素晴らしい曲であるとおもうが)、むしろ夏そのものの色だった。夏色とははたして何色か。西瓜のしたたるような淡い赤か、あるいはほおずきのやぶれそうな橙か。素麺や煮浸した茄子のある食卓のしずかで雑駁とした色味か、それとも獅子唐やピーマンやゴーヤの、それ食ってみろ!、といわんばかりの溌剌とした緑か。はたまたもっと単純なもの、やはりあの憂いなき、幼年時代そのもののような――しかし雷雨の予感を含んだ――青空の彩か。むろん我々は少年や少女にも憂いはよくあって、彼らもまた後顧の患いや、寄せてはかえす悔恨に苛まれている(いた)ということを、まま忘れがちである(たとえば私は幼年時代に、どちらかというと哲学的な方面から、自殺についてほんとうにひんぱんに深慮していた。そういう少年少女は少なくないはずだ)。とはいえ、その事実を忘れ、屈託や憂鬱とはほとんど縁のないものとして、あるいはそれが純粋に個体の「体」のみを持て余すような、世間とはかけ離れた、自分ひとりのなかば享楽的ともいえる屈託/憂鬱だった、と想い出されるところにこそ、ひと夏の想い出が幼年時代と結び付けられるゆえんがあるのかもしれない。だからこそ私たちはいま西瓜にかぶりついたり、素麺をするするすすったり、夏空のしたで飛び回ってみせたりしたときに、やや気まずい感じを覚える。大人になったじぶんには、そのような体験をなぞる資格は実はないのかもしれない、という不安にさいなまれる。むしろその嘘偽りないの屈託や憂鬱こそが、ほんらい夏色と呼ぶにふさわしい気もするのだが。しかししかし、本当のほんとうをいえば、我々はまだごく幼く未分化だったうちから、その未来の欺瞞というべきもの、それこそ本当に、文字通りの意味で、取りかえしのつかない状態を予感していたからこそ、我々にとって夏の真実、あるいは真実の夏と、幼年、あるいは我々が考えるところの幼年が結びつくのかもしれない。とはいえ、ここまで発展するとさすがに論理が私には複雑すぎるので、ここで筆をおくことにする。合掌、それからピノ・ノワールのしゅわしゅわしたワイン、真夏の夜の波の音。(落花生)