Peanuts Monkey Cuisine

I am just a monkey man, I'm glad you are a monkey woman too!

ジャズ談義(10)暴走

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A Man and a Scooter, Jodhpur, India

幼いころ三軒隣りに住んでいたK君のきわだった特徴は、おそろしく下手糞な自転車乗りであることだった。やや前かがみになって下あごを突きだし、肘を菱形にひらいて、まるで夜目のきかないどら猫のような風情で、彼はハンドル棒を握った。あまりに強く握るので、ブレーキを正常に操作できない。いきおい彼の停止はいつも急停止となる。赤信号にぶつかって急ブレーキ、歩行する老夫婦に進路をはばまれて急ブレーキ、あるいはとくにわけもなくただ不意に急ブレーキ。いつも誰かかどこかにぶつかるのじゃないかとこちらを緊張させたし、それよりもこちらがK君に追突するんじゃないかと常に警戒を強いた。K君はいつも先頭を走るのだ。誰よりも必死な姿をどうしても神に見せつけたい小心翼々とした宗教徒のように、集団からばっと急発進で飛び出ると、そのままあの独特の猫背をたもって、きわめて危うい足取りで、ペダルか股関節かのどちらかが故障したのじゃないかと思うような勢いで、猛烈に両脚を回転させながら我が心のフロンティアを疾駆していく。むろんその個人的な営みは幾つもの個人的な障碍に挫折させられるゆえ、彼を追い抜くのはさして難しいことではない。だが彼の自転車乗りとしての習性を知る人々は(それは一度きり肩を並べるだけの見ず知らずの歩行者や自転車乗りにもたちどころに知れた)、すでに彼から長く距離を取って背後を追走しているので、畢竟、誰も彼を追い越すことができず(あるいは追い越したがらず)、彼はつねに救済へのトップランナーとして孤独なレースを闘っているのだった。じっさいに尋ねたことはないが、K君のほうにも、他人を出し抜いて先頭を走っていたい、誰かに追い抜かれるのが我慢ならない、という負けん気が多少はあったかもしれない。しかしやはり彼の自転車乗りとしての本義は、あまりに緊迫しあまりに必死なゆえに、どうしても先頭を危なっかしく走ることしかできなかった、というところだろう。しかしそれにしたって、あんなふうにいきなり無茶に車道に飛び出したり、マンホールとマングースの区別がつかないかのようにとつぜん失速したり、それからまた脱兎のごとく、というよりもむしろ盗賊団に追われているかのごとく、取り乱してあたふた走る必要はなさそうなものだった。K君と駅まで向かう七分の道のりは、いつも冒険と哲学がつまっていた。(文章・写真:落花生)