Peanuts Monkey Cuisine

I am just a monkey man, I'm glad you are a monkey woman too!

ジャズ談義(16)祝祭

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A Store, Stone Town, Zanzibar

アーネスト・ヘミングウェイがなにかの本に、「書くことがいっこうに思い浮かばないときは、暖炉の炎のまえにすわって、蜜柑の皮をこまかく千切って果汁を絞っては、それが青白い炎となって爆ぜるのをながめていた」みたいなことを書いていた。私はこの情景がたいへん気に入っていて、自分にも暖炉があったらそんなふうに時間を過ごしてみたいものだ、とつねづね考えていた。あるいは別の本で読んだか、知人が言ったのか忘れたが、「どうにもやりきれない気分のときには、ベランダにしゃがみこんで、マッチを擦って火を燃やしては、それを吹き消して、という行為を繰りかえす」という話も聞いた。これもなかなか悪くないが、ややもすれば陶酔が透けてみえるのと、三本目のマッチの炎を消して四本目を灯したあたりから、「ただやりきれない私(あなた)」はふっとかき消えてしまい、「やりきれない私(あなた)を外から見ている私(あなた)」が顔を出してきそうで、そこがすこし困る。要するに、はじめの私は「やりきれない私の存在もまたやりきれず、その二重思考の私のことはもっとやりきれず……」という「やりきれなさの無限循環」に陥っている――むろん、あくまで無意識のままにである――いわば「やりきれなさの純粋培養体」であったところが、三本のマッチを灰にしたことで、そのピュアで無制限にやりきれない私は縮こまってしまい、「やりきれない私(あなた)のことはなんとかやりきれる私(あなた)」というわかり易い輪郭を有したクリシェが出現するのである。むろんこちらの私(あなた)のほうが社会的にはずっと優れた存在である。というか、ある程度の年齢を超えたら、ことやりきれなさに関しては、ある程度の時点でピュアにも無制限にも見切りをつけて、輪郭的で定型的なものとして相対化する作業ができるようにならないと、社会人として暮らしていくのは不可能である。「やりきれなさの純粋培養体」の様態はおそらくふたつしかなく、つまりは隠者/もの狂いの二択であって、社会的にいえば前者が自殺で、後者は他殺である。話をマッチにもどすと、三本目の炎が消えたところで、私(あなた)はさっさと部屋にもどって、ブランデーでも一杯か二杯飲んで、さっさと寝てしまったほうがいい。やりきれなさというのは維持できないものであって、というより、やりきれなさを維持していることを「発見」してしまった時点で、その私とあなたにやりきれなくなるのは、私やあなた自身ではなく、その輪郭を見てしまった「周りの人々」になるのである。アーネスト・ヘミングウェイもたぶんそのことに気が付いてしまって、だからこそ(私は彼の熱心なファンじゃないからよく知らないが)あんなふうに闘牛観戦だの猛獣狩りに身をやつしたのだろう。動物は死ぬまでやりきるだけだから。しかしながら、そんなふうに文字通り必死に、動物たちの累々たる屍を乗り越えて、やりきれなさをやりきったヘミングウェイの晩年の文章は、「やりきれなさ」と「やりきれるさ」が、ほぼ完ぺきな平衡(というか、ほぼ完ぺきな不均衡)を保って共存しているので(「隅々まで磨きこまれた投げ槍さ」とか、「異様なまでに執念深いノンシャランス」などともいえるだろう)、私にはひどく好ましく思える。(文・写真:落花生)