Peanuts Monkey Cuisine

I am just a monkey man, I'm glad you are a monkey woman too!

ジャズ談義(17)愛好家

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A Boy, Jimma, Ethiopia

私は三度のご飯より散歩が好きなの。そうかつて豪語した友人がいた。ことあるごとにそう触れ回っていたので、“豪語”といって差し支えないだろう。彼女はたしかに散歩が好きだった。大学までの地下鉄三駅ぶんの道のりをよく歩いてきていたし、私がひと駅ぶんを電車で済ませようとすると、必ずといって「あなたは横着ね。歩くわよ」といって、私を徒歩二十分の散歩に駆り出した。雨が吹こうが、風が吹こうが、お構いなしである。私は風のつよい日に外を歩くのがほんとうに苦手で、それというのも歩いていると看板だの木片だのが飛んできて、目玉に刺さって失明でもしそうな気がするからであって、そういうときのひと駅ぶんの散歩の誘い(というか実質的な命令)というのは、私にとっては散歩どころか、“簡易版・死の行軍”みたいなものである。もうひとつ疑問に感じたのは、その女の子が小太りだったことだ。かくも散歩好きの人間が、どうしたらああいうふうに脂肪を蓄えることができるのだろう。本人いわく、休みの日は「文字どおり一日中」歩いているのだそうだ。ということは、彼女のカロリー摂取は、「文字どおり一日中」歩いたぶんの消費量をだいぶ上回ることになって、つまりは彼女は「三度の飯もじつは相当に愛している」という命題が導き出される。しかるに、その食事愛をさらに上回る彼女の散歩愛は、じつにとんでもない熱量(カロリー)を有していることになる。べつに屁理屈を述べているわけでも、揚げ足を取りたいわけでもなく、彼女の発言と体躯を素直に受け取ったコロラリーがそう告げる。しかしながら、屁理屈でも揚げ足取りもないが、私には彼女の発言と、その発言に凡そよく象徴された彼女という人物の人となりに対する、いくぶんかの違和感(と不信感)をある程度まで言語化したいという欲望は、確かにある。その仮定的結論はとくに複雑なものではない。要するに、彼女はどこかの時点(おそらく高校二年生くらい)で、なにかの外発的あるいは内発的トリガーによって、「散歩好き」という人格を自己の中心に設定したのだ。「チョコミント味フリーク」とか「セロニアス・モンク狂」と同じ類の自己暗示である。むろん散歩もチョコミント味もセロニアス・モンクも、世間一般と比較すれば、それなりに深い愛情を注がれているのである。だがそもそも、彼女は自らの愛情の多寡を、「世間一般」あるいは「類似の対象物」との「比較」において設定したことが、決定的な誤謬(とあえて言おう)だったのである。彼女たちは本当は、三度三度の食事だって、ラム・レーズン味だって、ハンク・ジョーンズだってそれなりに好きなのである。ひょっとしたら、平生苦笑まじりにあげつらう、三時のおやつや、バニラ味や、キース・ジャレットだって、ときどきは摂取したくてたまらないのかもしれない。そして本当の本当を言えば、自分の盲信的愛情に対して、応分の見返りしか寄越さない、散歩やチョコミント味やセロニアス・モンクを、心の底ではおそらく憎悪しているのだろう。その憎悪は構造的に必ず外部に向かうので、いつか彼女たちは散歩やチョコミント味やセロニアス・モンクに「相応の敬意を払わない」という理由で、他人を糾弾して、罵倒して、打擲することになる。隣人を死の行軍に駆り立てる、というのはそういうことである。(文・写真:落花生)